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2009.10.23 Friday  | - | - | - | 

「いじめから子供を守ろう!ネットワーク」設立2周年シンポジウム

私は個人的に「いじめから子供を守ろう!ネットワーク」という団体の活動を応援しているのですが、その「設立2周年シンポジウム」が、「いじめを許さない教師の会」との共催で開催されるのだそうです。

テーマ:いじめ防止と学力向上のために「今、大人ができること」──いじめをなくすルールをつくろう!
2009年2月14日(土)
開場12時
開演13時〜16時
第1部 基調講演 加藤十八氏(中京女子大学名誉教授)
第2部 パネルディスカッション(加藤十八、藤平敦、濱島美佐子、後藤克彦、矢内筆勝)
会場:大田文化の森ホール
入場料:1000円(学生・子供は無料)


詳細については、「いじめから子供を守ろう!ネットワーク ブログ」をご覧ください。

私も、確か1年ぐらい前になるでしょうか、ここのシンポジウムに参加したことがあります。
その時の基調講演は渡部昇一さんで、年齢を感じさせない矍鑠(かくしゃく)とした弁舌に脱帽した覚えがあります。
理路整然として、かつ、時にユーモラスで、さすがだなあ、と。
そして、その際のシンポジウムの内容が、100ページほどの冊子になったものが、こちら。

いじめは犯罪!絶対に許さない
いじめは犯罪!絶対に許さない
渡部 昇一,大島 謙,鈴木 真実哉,さとう ふみや,矢内 筆勝,井澤 一明

アマゾンによると──

内容紹介
「いじめから子供を守ろう!ネットワーク」は、いじめから子供たちを守るために、立ち上がった父母の会です。
集団で一人を徹底的に無視し、肉体的にも精神的にもずたずたにし、自殺にまで追い込む――。
そんな陰湿で残虐な行為は、もはや「いじめ」などではなく、明らかな「人権侵害」であり「犯罪」です。
もう、子供の力では、いじめは解決できません。
多くの心ある大人たちの力が必要です。
私たちは、いじめに関する啓蒙活動、そしていじめられている子供の救済活動を行なっています。


──とのことで、何となく、「内容紹介」じゃないような気もしますが(汗)、まあ、この際、細かいことは目をつぶろう。
ともかく、この冊子についても一読をお勧めします。

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JUGEMテーマ:教育
2009.02.05 Thursday 00:58 | comments(0) | trackbacks(144) | 人生・幸福etc. | 

人生の偉業

時々、見かけますよね、70歳前後ぐらいなのかなあ、と見受けられるご夫妻が、寄り添って歩いている姿。
どこかへ外出された帰りなのでしょう、少しよそいきの感じの装いだったりして、手には、ついでに寄ったスーパーでちょっとした買い物をしたらしき荷物なんかをさげていたりして。
その、すごくべたべたしているわけではないけれど、普通に仲良く、お互いを信頼し合っているのであろう雰囲気、みたいなものを目にするにつけ、しみじみと、温かい気持ちになります。

でも、きっと、これまでの人生、いろいろなことがあったはずですよね。
特に、30代、40代の頃は、奥さんのほうは子育てに苦労して、それなのに、旦那さんのほうはろくに話も聞いてくれなかったかもしれない。
だって旦那は旦那で、会社でいろいろ大変で、それどころじゃなかったかもしれないものね。
子供の教育費がかさむので、奥さんはあまり仕事をしたこともなかったのに思い切ってパートに出たら、いけすかない正社員からいじめられてしまった、なんてこともあったかもしれない。
ちょうどその頃、旦那のほうは、何となく家庭が面白くなくて、浮気の一つもしてしまったかもしれない。
そんなこんな、いろんなことがあったりもしながら、それでも一緒に生きてきて、今、あんなふうに寄り添っているのかなあ……なんて、もちろんすべては私の単純な妄想にすぎないのだけれど。
30代、40代の頃があれだけ大変だったからこそ、今のこの穏やかな日々が、しみじみと幸福、だったりするのかなあ、なんて。

やっぱり、人はそんなふうにして、支え合って生きていくものなんだなあと、当たり前なんだけど、改めて感じます。
年老いて、そんなふうに、「ああ、いいなあ、あのご夫婦……」って、何となく人を温かい気持ちにさせたりするのって、すごく素敵なこと。
一見、それは、単なる平凡な人生なのかもしれないけれど、その平凡な人生を、大切に、真っ当に生ききることって、実はある意味で偉業ですよね。
人間、そんなふうに生きたいものですね。
そんなふうに、年を取りたいものですね。

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2009.01.24 Saturday 00:02 | comments(0) | trackbacks(9) | 人生・幸福etc. | 

本当は何も失われてなどいなかったのだよ、と。

この2007年11月6日(火)は、どういうわけか、私にとって大切な一日となりました。
特に何かが起きたわけではありません。
ただ、今まで、知っていて、あたかも自分の考えであるかのように語ることもできたけれども実のところ分かってはいなかった種類の事柄が、不意に、少し分かりかけた気がしたのです。
それは、私にとってとても大きなことでした。
ここから先、読んでカクッと来る人がいるのを承知で書けば、奇妙なことに、SMAPの「らいおんハート」という曲が心の中で何度も響くのです。
印象的なフレーズに、「失ったものはみんなみんな埋めてあげる」という歌詞がありますが、あの部分に、とても感じるものがあります。
つまり、本当は誰も誰かから何かを奪うことなんてできないのです。
だから、「失ったもの」があるように誰かが感じていたとしても、本当は、何も失われてなどいないのです。
だから、埋めてあげたいというより、むしろ、本当は何も失われてなどいなかったのだよ、と教えてあげたい。
心は王国であり、本人以外の誰にもそれを支配することはできない、ということは、言葉としては知っていても、やっぱり分かってはいなかったんですね。
それが、不意に、分かりかけた気がするのです。
それと同時に、ああ、私はずいぶん長く生きたのだなあ、と急に思えました。
これまで、そんなに長く生きたと感じたことはあまりありませんでしたが、急に、ずいぶん長く生きた、と思ったのです。
そして、よく、50歳を過ぎたら、あとはお返しの人生だ、などと言われるけれども、私は、もうここでいいな、と思ったのです。
50歳まで行かなくても、もう、この42歳から先はお返しの人生でいいと。
自分が、多くのものを与えられてきたということや、むしろ、全てを与えられてしまっているということが、奇妙に実感されるのです。
自分に、急に何かが起きたのか、あるいは気のせい(笑)なのかは分かりません。
ただ、これまで言葉でしかなかったものが、急に実感を伴って感じられるようになった、ような気がするのです。
何かが分かりかけているのかもしれません。
ただ一つだけ間違いなく言えることは、自分の人生を振り返ってみて、これまでこんなに幸福だったことはなかったな、ということです。
そのぐらい、奇妙な至福感に包まれています。
何か特別なことをしたわけではありません。
ただ、もしかしたら、「許そう」と決意したこと、のせいかもしれません。
他人はもちろんですが、自分も許そうと思いました。
そして、他人はもちろんですが、自分のことも、信じようと思いました。
そうしたら、急に、いろいろなことがストンと理解できた気がします。
たとえば、「捨てる」ことの大切さ、とか。
何だか憑き物が落ちたみたいに、ストンと楽になりました。
たぶん本当に憑き物が落ちたのだろうと思います(笑、といっても実際のところ笑いごとでもない)。
夕方ぐらいに、あまりに心身ともに軽い感じがしたので、右隣に座っていた人に、突然、何の脈絡もなく、「なんか、憑依霊の“体数”が減った気がする」などと話しかけてしまったほどです。
「どういうこと〜?」と目を白黒させる相手に、「つまり、5体ぐらい憑いてたのが、2体ぐらいに減った気がする」と答えると、相手は、苦笑しながらも、喜びを分かち合ってくれました(←大迷惑!?)。
たくさんの人から、たくさんのものを奪って生きてきましたし、支えてくれたり助けてくれたりした人たちに、ろくに感謝もせずに生きてきました。
これから、失ったもの(と、誰かが感じているもの)を、みんなみんな埋めてあげる気持ちで、生きていきたい。
こんなふうに、別にファンでもないSMAPの、特に好きでもない曲の歌詞に託して書くことで、たぶん見下されもするでしょうが、それもまたよきかな。

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2007.11.07 Wednesday 02:08 | comments(6) | trackbacks(2) | 人生・幸福etc. | 

人は何のために生きるのか?

何回かちらほらと触れてはいるが、3月31日に放映された「江原啓之&嵐 現代人の悩みを救え!緊急生放送スペシャル!!〜明日への扉〜」という番組、この中でいちばん心に残っているのは、10代の若者1000人を対象に行われたアンケート結果。

ちょっと曖昧な記憶に基づく記事になってしまって申し訳ないが、確か、今の悩みを問う質問に対して、全体の3分の1ぐらいが「生きる意味が分からない」と答えていた、というような結果があったように思う。

さらに、「今までに自殺を考えたことがあるか」という問いには、確か約4分の1が「はい」と答えていた、と記憶している。

確かに、生きる意味が分からないことは辛いこと。

私自身も、中高生の頃、そのことがとても辛かった。

ごくごく小さな頃、まだ幼稚園とかぐらいの頃から、人間が生きていること、その一人ひとりが心を持って、いろいろなことを考えて生きているということが、とても不思議だった。

当時は明確に意識できていたわけではないが、そうした人間存在の意味とか、人生の意味といったようなことを、今はまだ幼いがゆえに分からないけれども、大人たちはおそらくみんな知っているのであり、だからこそ生きていられるのであり、自分もまた大人になった暁には、その謎を知ることができるのだろう、と漠然と信じていた。

けれど、10代になった頃、小学校から中学へ上がった頃だろうか、私は気づいてしまった、実は大人たちも必ずしもその答えを持っているわけではないということに。

そのことは私にとって、そう、底知れぬ闇の中に引きずり込まれるような恐怖だった。

(←詩的な表現を狙っているわけではなく、文字通り、そんなふうに感じた。)

だから(かどうか)、中学から高校にかけて、私はかなり情緒不安定な子供だったと思う。

で、「波長同通の法則」により、悪霊憑依も受けていた、特に中学の頃。

これは明確に記憶がある。すごく怖かった、なぜなら、今と違って、何が起きているのかも、そこから脱却する方法も分からなかったから(今は知識も少しはあるし、対処法も、ある程度までなら思いつく)。

当時の私は、さしあたって、「とにかく現実的なことに傾注しよう」と努力することによって、周りの、普通の(自分のように“異常”でない、正常な)、人生の意味なんて考えて苦悩していない子供たち(実際、そういう話をすると、「へぇ、ずいぶんいろんなこと考えるんだね」と驚かれて終わることが多かった)と同化するように努めた。

その試みは、特に高校以降、なかなかうまくいった(こんな話、前にもした気がしてきたけど、重複してたらごめん)。

ひとまず、「情緒を安定させるには、目の前の現実的な問題に傾注することが効果的である」という知恵を得たわけだが、だからといって、根本的な疑問、「人は何のために生きているのか。この世界というものは一体全体どういう仕組みになっているのか」ということについては、謎のままだった。

その疑問に答え得るものは、結局のところ、宗教以外にはないことを、当時も感覚的に薄々と感じたし、今はそう確信している。

その答えを求め、私は高校から大学にかけて、少しキリスト教を少しかじってみた。

結論として、私はイエス・キリストが救世主であること、真実の教えを説いたことは100%信じたのだが、現存するキリスト教に帰依することはできない、と判断した(これは間違いなく前にも書いた。もしかすると三度目くらいかも)。

キリスト教に入信できなかったことは残念だったけれど、長い年月を経て、どこまで曲がってしまったか分からないものを信じるということは、私にはできなかった。

素直に入信できなかった自分は、しょせん宗教や信仰というものとは縁遠い人間なのだと、それは私にとってちょっとした挫折感ではあった。

だけど、心の底では答えを求め続けることをやめることはできなかったから、ついにその答えを得た時には、言葉で言い表せないぐらいのものがあった。

それは深い安心感であり、喜びだった。

だからこそ思う、あの思春期の頃の、端から見たら愚かで無意味だったであろう苦悩も、決して無駄ではなかったと。

今、若者たちに「生きる意味」を問われたら、私はこう答えたい、「人は人を幸福にするために生きるのだ」と。

そして、やはり、現代人を救うためには、時代に即した宗教思想というものが、どうしても必要なのだと改めて思う。

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2007.04.08 Sunday 22:24 | comments(2) | trackbacks(12) | 人生・幸福etc. | 

あの方が夢に現れました。でも、むしろ悪夢かも。

私には、誰よりも誰よりも敬愛してやまない方がいるのですが、その方が、夢に現れました。

仲間うちでは、その方の夢をよく見るという人も少なくないのですが、私はほとんどなく、明確に、間違いなくリアルに現れたのは、今回が二度目です。

一度目は、もう13年ぐらい前になりましょうか、この世界に入ってすぐのことでした。

カーペット敷きの部屋に、10人くらいが車座になって集っている中に、その方も加わって。

その時は、その方が私の存在や名前を認知して下さっていることに驚いた、という程度の内容でした。

でも、今回の夢は、よりリアルで、すごく生々しくて、正直、ちょっと怖い。

──しかし、そもそも、夢の話なんて、見た本人以外には大して面白いわけでもないですから、どうでもいいことかもしれませんね。

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2007.02.04 Sunday 16:56 | comments(0) | trackbacks(29) | 人生・幸福etc. | 

天国への憧れ

今日の夜、職場で右隣の席のデキる男M氏が言っていましたが、明日ってどうやら記録的な大雨になるらしいですね。

急に寒くもなってきたし、みなさま、風邪その他もろもろにお気をつけ下さいませ。

さて、M氏と言えば、彼のあの屈託のない笑顔を見るたびに私は思うのです、ああ、天国ってこういう人たちが集まるところなんだろうな、と。

そう思うと何か胸がいっぱいになってしまう。

これはどういう種類の感動なのでしょうか。

自分にはない美しいもの、素晴らしいものを目にした時の感動、だろうか?

──「ない」と言っては誤りでしょう、潜在的には持っているものでしょう、でも、なかなかどうして顕在化してこないのですな、これが。

つまり、自分も潜在的には持っているはずではあるもののなかなか顕在化してこないところの、美しいもの、素晴らしいものに感動する、ということでしょうか。

ややこしいな(^_^;

今日書きたいと思ったことは、M氏への感謝です。

彼がいてくれることで私はどれだけ救われ、癒され、助けられていることか。

こんなことは面と向かっては言わないし、また、この記事を彼が読む可能性も低いだろう。

ただ書いておきたいと思ったのだ。

彼を見ていると、ああ、人が人を愛するということはこういうことなんだと分かる。

というか、人というのは本来こういうふうに人を愛する存在なのだ、ということが分かる。

(……ほめすぎか?)

でも、それを言いたいのは実はM氏だけではない、当然ながら。

いろんな形で関わってきた人たち一人ひとりに、同じことを言いたいのです、どれだけ感謝してもし足りないということを。

──素晴らしい人を見ると、天国への憧れを喚起されます。

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2006.10.06 Friday 02:48 | comments(0) | trackbacks(0) | 人生・幸福etc. | 

「ハッピー」とは何ぞや。

しかし、幸せって何なんでしょうね。

……いきなりすみません(^_^;

いや〜、ふと思ったのですよ。

このブログで私はさんざん「ちょっぴりハッピー」がどうしたこうしたとか言っていますが、そもそも、その「ハッピー」とは、「幸福」とは何ぞや、ということについて、自分はどう考えているのか?と。

もちろん、衣食住が充分であること、少なくとも、最低限のレベルには達していることは、大事なことでしょう。

ただ、それを軽んじるつもりは全くないのですが、衣食住が不充分であったからといって、必ずしも不幸とは限らない、ですよね。

じゃ、幸福の条件とは何なのか?

やはり、精神面の満足。

人は、何をもって精神的な満足を得るのか?

それはもちろん具体的には人それぞれの面はあるだろうけれど、基本ラインは実は共通しているのではないでしょうか。

で、それは何か?

一つには、自分を肯定できること。

すなわち、自分の本性は素晴らしいものであると確信できること。

もう一つには、他者をも含め、世界を肯定できること。

その二つの条件が揃った時、自ずと心の中には感謝が湧いてくる。

この素晴らしい世界の中に自分は生かされていること。

それをしみじみと感じ取ることができる。

この感覚が、幸福、なのではないだろうか?

自分の素晴らしさを、信じることはできるだろうか。

世界の素晴らしさを、信じることはできるだろうか。

表面的な不幸感覚や、軽はずみな過ちや、本来あってはならない物事などによって、目を曇らされることなく、全ての本質を、私たちは見抜かなくてはならない。

何かが不充分であることも、何かが思うようにいかないことも、──そう、欲しいものが手に入らないことや、行きたい場所に到達できないことや、言ってほしい言葉を言ってもらえないことや、そんなことは本質ではない。

大切なことは、どんな時にも決して忘れてはならないいちばん大切なことは、自分を信じる、世界を信じるということなのだ。

……実は、最近の私って妙に内省的なのですよ。

ものすごく真剣にジャニーズネタを書き連ねながらも、同時にこんなことも考えてみたりしています。

自分では、人生において一つの転機を迎えようとしているような気もします。

さて、どうなっていくのでしょうか。

今後も「ちょいハピ」から目が離せない……!?

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2006.08.13 Sunday 02:53 | comments(4) | trackbacks(0) | 人生・幸福etc. | 

心のお風呂に浸かってみよう。

祈ることが好きだ。

といっても、それは、
「このことが、こうあってほしい」
などと念じることではない。
もちろん、そういう祈りもあるが、ここでは、
「大いなる存在の前にひざまずき、
小さき者としての自分を受け入れる」
ということを祈りと呼びたい。

大いなる存在の前で、私は、
自らを飾ることもなく、
あくせくすることもなく、
肩肘を張ることもなく、
自分で自分をいじめることもなく、
他人を責めることもなく、
あらゆる心の苦しみから解き放たれる。

それは、
向上の努力を放棄するということでもなければ、
犯した過ちを単に忘却するということでもない。
向上の努力は続けるし、
犯した過ちは反省し償う。

しかし、
その努力も、
反省も、
失敗も、
挫折も、
改心も、
怠惰も、
停滞も、
奮起も、
後退も、
遠回りも、
立ち直りも、
その全てを、
大いなる存在は、
見守り、
受け入れ、
許している。

それは、
悪を悪として許容するということではない。
そうではなく、
たとえ悪を含む者であろうとも、
いつの日か、その悪から立ち直り、
必ずや、本当の自分を取り戻し、
光り輝く自分を取り戻し、
幸福という名の輝きを放つに違いないことを、
気の遠くなるような忍耐力を持って、
待っているということだ。

そのことを、魂の全体で感じ取り、受け入れること、
それが祈りだ。

大いなる存在に包まれ、許されて、ここに在ること。
もう、ほかには何も要らない。

そこに幸福がある。
そこにこそ幸福がある。

だから、時には祈りたい。
自分をがんじがらめにしている幾つものしがらみを手放して、
尊いものと一つになり、
もう一度、澄んだ心になってみたい。

祈りとは、すなわち、心のお風呂。
心の湯船に浸かって、
つるんとした心になって、
ぽっかぽかの心になって、
また明日から、新しく生きてみよう。


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2006.02.16 Thursday 01:23 | comments(2) | trackbacks(0) | 人生・幸福etc. | 

人柄のよしあしは、感謝の度合いに比例する。

このブログにも時々コメントを寄せて下さる木蓮さんという方のブログ(「magnolia〜日々是好日」というブログです。http://magnolia02.blog9.fc2.com/)の記事を読んでいて、思うところがあったので、きょうはそれについて書きたいと思います。

その記事によりますと、えーと、あるラジオ番組で論争になったそうなのですが、あるお母さんが、学校に、「給食代を払っているのだから、子供に『いただきます』と言わせるのはやめてほしい」という手紙を書いた、とか。

そして、木蓮さんは、「いただきます」とは、「命」をいただいている、ということなのではないか、ということを書かれていました。

それを読んで、ついついコメントを入れたくなり、こんなコメントを寄せてみました。


私は一人暮らしで、一人で食事をとる頻度が高いのですが、つい忘れちゃった時以外は、一応「いただきます」と言って軽く手を合わせます。
それは宗教的な行為かもしれませんが、むしろ、人間として、そのくらいの宗教性は必要なのではないかと思うのです。
「いただきます」と手を合わせる時、それは単なる習慣になってしまっている面もありますが、基本的には、感謝の気持ちを形にする、という考えでやっているつもりではあります。
食べ物となってくれた動物や植物たちへの感謝、それを育ててくれた人、収穫してくれた人、あるいは、運んでくれた人、スーパーの棚に並べてくれた人、などなど、感謝すべき対象は限りがありません。
その全てにいちいち思いを馳せるわけでもないのですが、そうした感謝の思いは忘れてはならないと思うし、子供たちにも教えてあげるべき考え方ではないかと思います。



いや〜、熱いねぇ、ちょいハピ。
……と、自分を茶化している場合ではなく。

やはり、気になるのは、その、学校に手紙を書いたお母さんの思想というか、ものの考え方、です。
お金を払うか払わないかの問題ではないですよね。
つまり、人から何かをしてもらった時、代金を払った場合は当たり前だからお礼は言わなくてもいいが、代金を払っていない場合はありがたいからお礼を言う、ということになってしまうではないですか。
実際、そのように考えているのかもしれない、と思える人を、いろいろな場面で目撃することもあります。
たとえば、買い物をしている時などに、お店の人に対して不必要に(と思える)横柄な態度をとっている人、とか。

しかし、想像してしまうのですが、仮に、そういう人が、年を取り、病気になって入院した場合、その人は、医師や看護師に対しても、そういう不必要に横柄な態度をとるかもしれません。
そうすると、当然の帰結として、医師や看護師は、その人を嫌い、仕事だからしかたなく、いやいや接するかもしれません。
そうすると、その人は、その医師や看護師を責め、お金の力にものを言わせて(ここでは、その人はお金持ちと仮定して)、医師や看護師を交替させるとか、転院するとか、何か手を打つかもしれません。
でも、いくら人を替えても、病院を替えても、その人自身が横柄であり続ける限り、周りの人は、その人に対して冷たい態度をとってしまうんじゃないだろうか。

変な想像かもしれませんが、時々、そんなことを思ってしまうのです。
自分自身、そういった形で、年老いて入院したりした時に、周りの人たちから愛され慕われる老患者となれるだろうか、と自問してみたりもします。

何が言いたいかというと、結局のところ、最後に「ものを言う」のは、やはり、お金でもなければ、それ以外の何かの力でもなくて、その人の人柄そのものなのではないか、と。
(もちろん、お金なり力なりも、ないよりはあったほうがいいと思うので、それらを否定するわけではありませんが。)


実を言うと、私自身は、「感謝」ということの薄い人間だと自覚しています。
だからこそ、逆に、常に心掛けないといけないなぁと自戒している次第。

変な話ですが、以前、このブログで、「前は手指がすごく荒れやすかったけど、今は大丈夫になった」と書きましたが、今でも、時々、少し荒れてしまう時があります。
そういう時は、たいてい、周りのいろいろな物事に感謝が足りなくなっている時なのです。
だから、私にとっては、手指の荒れ具合が、感謝の度合いのバロメーターになっているというわけ。

人柄のいい人は、決まって感謝に溢れています。
私の人柄の悪さ(自覚はあるのですよ、みなさま。なかなか直せないのですがね)も、感謝の薄さに起因しています。
人柄というものの大切さ、そして感謝ということの大切さ、これは、もっともっと語られるべきことなのではないでしょうか。

……と、あくまでも熱く語る、今日もまた明け方なのでした。


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2006.01.30 Monday 04:30 | comments(5) | trackbacks(2) | 人生・幸福etc. | 

私がキリスト教に入信できなかった理由

子供の頃、本を読むのが好きで、イギリスやアメリカの児童文学をよく読んでいた。
その中の登場人物たちは、たいてい、日曜日には教会に行くし、夜寝る前にはひざまずいて神様に祈っていた。

そんなところから、私は、いつしか、キリスト教というものに漠然とした憧れを抱くようになっていたのだと思う。

また、キリストの伝記を読んだ時にも、このイエスという方は、おそらくは本物の救世主であったに違いないと信じることができた。

とはいえ、現実のキリスト教は、なかなかに敷居が高かった。

近所に教会はあったし、日曜の礼拝には誰でも行けるらしかったから、中学生の時、友達の誘いもあって、一度、礼拝に参加してみたことがある。
その時は、ちょっと拍子抜けというか、軽い失望があった。
礼拝は、簡単な聖書のお話があって、賛美歌があって、という、ごく普通の内容。
特におもしろいわけではなかったが、そういうものかと思ったし、信者の人たちも親切だったから、それだけだったら、何度か参加していたかもわからない。
ただ、牧師さんに笑顔がなかったことと、来週以降も参加するなら住所と氏名を記入してほしいと言われたことに、微かな抵抗感を覚えて、以後、二度と参加することはなかった。

しかし、何か偉大なる尊い存在を崇めたいという本能的な欲求は日々募っていったし、自分にとって親和性もあり身近な宗教といえばキリスト教しかなかったので、いつかはキリスト教に入信したいと思っていた。

高校生の時には、その何年か前に既にキリスト教徒になっていた姉に連れられて、たびたび教会に行くようになっていた。
真剣に入信を検討しつつ、姉の薦めに従って、キリスト教に関する本などを何冊か読んだりしていた。

──しかし、結論として、私はキリスト教に入信することはできなかった。

イエス・キリストを本物の救世主と信じることはできた。
イエス・キリストが、本物の教えを説き、さまざまな奇跡を起こしたことも、信じることができた。
信仰というものを強く求めてもいた。
洗礼を受けることに憧れを抱いてもいた。
それなのに、なぜ入信できなかったのか?

一つには、「原罪」という考え方が納得できなかった。
読んだ本が悪かったのかどうか、よく分からないが、とにかく私がその時に理解した限りでは、キリスト教とは、「人間は愚かでどうしようもない存在だから、神様にすがる以外に救われようがないのです」というような教えである、ということであった。
これは一種の脅しではないだろうか?と私には思えてしまった。
信仰とは、もっと、自然に心の底から湧き上がってくるような、かつ、幸福感を伴うようなものなのではないかとイメージしていたので、その暗くて束縛的で脅迫的ですらある教えには、違和感を感じざるをえなかった。

もう一つには、解釈の違いということがあった。
たとえイエス・キリストが本物の救世主であったとしても、たとえば、聖書の中の一つの文章をとってみても、解釈によって捉え方がまちまちであったりする。
教会によって、牧師や神父によって、考え方が異なるのであれば、その中のどれが正しいのかを、どう判断すればよいのか?
ある牧師や神父の言葉に、誤りが含まれている可能性があるのであれば、そのような曖昧なものを、信じていくことができるだろうか?
そう思った時、とうてい入信することはできないと思った。

とても残念だったけれど、私はキリスト教徒になることはできなかった。
でも、心の中では、イエスを信じていたし、神を信じていた。
信じてはいたが、信仰者となることはできなかった。
それは私にとって、一つの挫折体験であった。

しかし、やはり、信仰とはもっと自由で伸びやかなものであるはずだという思いが否めない。
「この教えを信じなければ救われない。この教え以外は悪魔の教えである」とするような教えは、やはり信じることができない。

それに、どこまでがイエス・キリストの説いた通りの教えであり、どこからが牧師や神父の私見であるのか分からないような曖昧なものを信じることも、私にはできない。

それでもキリスト教に入信できる人というのは、ある意味で超越しているのかもしれない。
それは、信仰の持つ尊い面でもあり、同時に危険な面でもあると思う。

私には、よくも悪くも、そうした超越したところが足りないのかもしれない。
それは、よい面で言えば、危険な道に迷い込む可能性が低いということにもなろうが、同時に、悪い面で言えば、高みに向かう道へと自分を投じる勇気が欠けているということでもあるのかもしれない。

私は、実のところ、キリスト教徒の人たちに尋ねてみたいのだ、「あなたがキリスト教に入信できた理由」というものを。


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2005.12.18 Sunday 04:21 | comments(4) | trackbacks(0) | 人生・幸福etc. | 
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